フルンロー包囲戦 (1672年)
フルンロー包囲戦(フルンローほういせん、オランダ語: Beleg van Groenlo)は仏蘭戦争中の1672年6月に行われた、フランス王国、ケルン選帝侯領、ミュンスター司教領の連合軍によるネーデルラント連邦共和国の要塞都市フルンローの包囲。フルンローは数日間の包囲ののち降伏した[3][4]。
フルンロー包囲戦 | |
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1627年のフルンロー包囲戦の後、修復されたフルンローの要塞。地図は1649年作。 | |
戦争:仏蘭戦争 | |
年月日:1672年6月3日 - 6月9日[1] | |
場所:ネーデルラント連邦共和国、フルンロー | |
結果:フルンローの降伏 | |
交戦勢力 | |
ネーデルラント連邦共和国 | フランス王国 ケルン選帝侯領 ミュンスター司教領 |
指導者・指揮官 | |
グスタフ・トゥンヘル(Gustaff Tungel) | クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレン |
戦力 | |
歩兵と騎兵合計600[2] | |
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背景
編集イングランド王国とフランス王国の間のドーヴァーの密約が締結され、ミュンスターとケルンもフランスに同盟した後、フランス軍は領土拡大のためにネーデルラント連邦共和国を東から奇襲することができた。フランス軍がオルソイ、ラインベルク、ヴェーゼル、レース、エメリヒを奪取した後、ミュンスター司教クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレンは1672年6月1日に共和国に侵攻[5]、数日でオートマルスム、オルデンザール、エンスヘデ、アルメロ、ホール、デルデン、ディーペンハイム、ボルクロを奪取した。
フルンロー市は補給がふんだんにあり、大砲も22門あった。市内にはグスタフ・トゥンヘル率いる10個歩兵大隊と1個騎兵大隊、計600人がいた。さらに市内には1627年のフルンロー包囲戦以来同市を守ってきた水路と堡塁があった。フォン・ガレンは軍を三手に分け、砲兵をツヴィルブロック(Zwilbrock)に、騎兵をベントハイムに、歩兵をコースフェルトに配置した。連合軍はミュンスター司教領で合流した後、数日でヴェーゼル、ビューデリヒ(Büderich)、ラインベルク、オルソイ、エメリヒを奪取した[6]。フランスとケルンの連合軍はミュンスター司教領のドルステンに到着[5]、そのままアイセル川に向かおうとしたが、フォン・ガレンは頑なにフルンローを先に攻めることを要求、フランスとケルンの連合軍から援軍を求めた[6]。彼はオーファーアイセル州とヘルダーラント州に入る前に2万5千の援軍を得た[7]。
包囲
編集6月3日[2]、ミュンスター軍はフルンローに接近、フォン・ガレンは宗教儀式を終わらせてツヴィルブロックからやってきた。彼は臼砲8門を設置して砲撃を開始、砲弾計288枚を発射した[6][8]。フルンローの包囲において新しい種類の砲弾が使われた[9][10]。フルンローの守備軍は砲弾を発射できるものなら何でもいいと言わんばかりに、火薬樽19個がついた台車を砲台として使ったほどであった。着弾による爆発の響きが大きすぎて逆側にある包囲軍が驚いて叫んだほどであった(ミュンスター軍の砲撃がフルンローの弾薬庫に命中したと考えられる)。爆発により負傷した人はいなかった[6]。いずれにしても、フルンローのブルジョワはフォン・ガレンの砲撃で恐慌になった。さらに、フルンローの住民はミュンスターを「外国」とはみなせず、共和国よりミュンスターのほうが近しいとさえ考えたほどであった[11](フルンローの住民の多くがカトリックであった)。6月9日、フルンローは降伏、夜には降伏の合意がなされた。フルンローの住民は引き続き宗教の自由を有し、略奪を免れたほか、フルンロー市はその権利を維持した。共和国に忠誠を誓い続けた人々は資産を売却してから去ることを許され、残りの市民はミュンスター司教領の住民となった。トゥンヘルは降伏を拒否して鍵を握り続けたが、6月9日にはそれを市民に奪われ、翌朝にフォン・ガレンに与えられた[6][8][2][11]。
その後
編集フォン・ガレンは自らフルンローを統治することにした[5]。1672年の包囲戦において、フルンローは自軍の人数が大幅に上回られていることで降伏を余儀なくされた。連合軍は続いてブレデフォールト包囲戦を行い、ロヘムやデーフェンテルも落とした。このようにして、共和国のランプヤール(災難の年)と呼ばれる1672年が終わった。フォン・ガレンはフルンローが再び篭城に使われないようその防御工事を破壊、占領から2年後の1674年に撤退した。
脚注
編集- ^ 包囲の日付は文献によって相違した。Fruinは6月1日から10日としたが、von Alpenは包囲が6月7日に開始、降伏が9日に行われたとした。Corstiensは単に「数日間」であるとし、Waltherは3日間、Coornhoutは6月3日から9日までだとした。連合軍が6月1日にはツヴェンテにいたことと、2日に合流点のドルステンへ移動したことを鑑みると、包囲開始を3日とするのが妥当であろう。包囲の終わりについてはほとんどの文献が9日だとした。
- ^ a b c Huich Jans Zoon Coornhout, Grondig Berigt van 's lands ongeval, in den jare 1672, dat het niet is geweest verraet nog schuld der staetsche regeerders P. 47. Uitgave:Losel, 1742
- ^ Johann Ludolph Walther,Johann Ludolph Walther Instrumentum pacis Caesareo-Suecicum P.52 Uitgave:Univ.-Buchh., 1740
- ^ Historisches Lexicon, Historisches Helden- und Heldinnen-Lexicon P.618 Uitgave:1716
- ^ a b c Johann von Alpen,Johann von Alpen Geschichte des Stifts Münster unter Christoph Bernard von Galen P. 178 - 182 Uitgave:1790
- ^ a b c d e Johann von Alpen,Johann von Alpen, Leben und Thaten Christoph Bernhards von Galen, Bischofs und Fürsten von Münster, Administrators von Corvey P.234 - 238 Uitgave: Theissing, 1790
- ^ Eillert Meeter,Geschiedenis van het beleg van Groningen in 1672: in verband gebragt met de vaderlandsche historie van dien tijd, P.7 Uitgave: Oomkens, 1839
- ^ a b P. Corstiens, Bernard van Galen, vorst-bisschop van Munster: historische schets van een belangrijk tijdperk der XVIIe eeuw en van de Nederlandsche republiek, vooral omstreeks 1672, P. 184 Uitgave: Van Belle, 1872
- ^ Het vaandel,Het vaandel: tijdschrift voor onderofficieren - deel 1 - P. 304 Uitgave:Visser, 1855
- ^ Johann G. von Hoyer,Geschichte der Kriegskunst seit der ersten Anwendung des Schießpulvers zum Kriegsgebrauch bis an das Ende des achtzehnten Jahrhunderts, Band 2 P. 34 Uitgave: Rosenbusch, 1799
- ^ a b Robert Fruin, De oorlog van 1672 P. 153 Uitgave:Robert Fruin, 1972
参考文献
編集- J.W. van Sypesteyn, J.P. de Bordes (1850): De Verdediging van Nederland in 1672 en 1673; Bijdragen tot de Staats- en Krijgeschiedenis van Nederland, 's-Gravenhage: Van Langenhuysen