トマス・ホランド (初代サリー公)
14世紀のイングランドの貴族。
初代サリー公・第3代ケント伯トマス・ホランド(Thomas Holland, 1st Duke of Surrey, 3rd Earl of Kent, KG, 1372年9月8日 - 1400年1月7日)は、イングランドの貴族。第2代ケント伯トマス・ホランドと第10代アランデル伯リチャード・フィッツアランの娘アリスの長男。父方の祖母はジョーン・オブ・ケントで、イングランド王リチャード2世は叔父(父の異父弟)に当たる。
トマス・ホランド Thomas Holland | |
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第3代ケント伯 初代サリー公 | |
在位 |
ケント伯:1397年 - 1400年 サリー公:1397年 - 1399年 |
出生 |
1372年9月8日 |
死去 |
1400年1月7日(27歳没) |
配偶者 | ジョーン・スタッフォード |
家名 | ホランド家 |
父親 | 第2代ケント伯トマス・ホランド |
母親 | アリス・フィッツアラン |
生涯
編集父と叔父のハンティンドン伯ジョン・ホランドがリチャード2世に重用されたことからトマスも側近に引き立てられ、1397年に死んだ父の爵位を受け継ぎ第3代ケント伯となった。同年にリチャード2世がグロスター公トマス・オブ・ウッドストックと第11代アランデル伯リチャード・フィッツアラン(ケント伯の母方の伯父)ら反対派貴族を処刑した後に新設のサリー公に叙爵されたが(叔父もエクセター公を授与)、1399年にクーデターでリチャード2世が廃位、代わって即位したヘンリー4世から爵位を取り上げられ元のケント伯に戻された[1][2]。
これに不満を抱いたケント伯は叔父とソールズベリー伯ジョン・モンタキュート、元グロスター伯トマス・ル・ディスペンサーと組んで1400年1月の公現祭のヘンリー4世暗殺を計画したが発覚、即座に民衆に捕らえられ処刑された[1][3]。第2代スタッフォード伯ヒュー・ド・スタッフォードの娘ジョーンと結婚していたが子が無く、ケント伯位は弟のエドマンドが継承したが、1408年に彼も子供が無いまま死去してホランド家は断絶した。ただし、従弟で共犯者として処刑された叔父の遺児ジョンは後にエクセター公位を与えられ分家が再興を果たした[4]。
脚注
編集参考文献
編集公職 | ||
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先代 ノーフォーク公 |
軍務伯 1398年 - 1399年 |
次代 ウェストモーランド伯 |
先代 マーチ伯 |
アイルランド総督 1399年 |
次代 サー・ジョン・スタンリー |
爵位・家督 | ||
先代 新設 |
サリー公 1397年 - 1399年 |
次代 消滅 |
先代 トマス・ホランド |
ケント伯 1397年 - 1400年 |
次代 エドマンド・ホランド |