デ・ラ・ガーディエ戦役
デ・ラ・ガーディエ戦役(デ・ラ・ガーディエせんえき、典: De la Gardieska fälttåget、露: Поход Делагарди)は、ロシア・ポーランド戦争中、ヤコブ・デ・ラ・ガーディエとエヴェルト・ホルン率いるスウェーデン派遣軍5千人とロシア・ツァーリ国のミハイル・スコピン=シュイスキー率いる軍勢の連合軍がポーランド・リトアニア共和国と偽ドミトリー2世と戦った戦役。
デ・ラ・ガーディエ戦役 | |
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1609年、ノヴゴロド近くで面会するミハイル・スコピン=シュイスキーとヤコブ・デ・ラ・ガーディエ | |
戦争:ロシア・ポーランド戦争 | |
年月日:1609年4月 - 1610年7月4日 | |
場所:ロシア・ツァーリ国 | |
結果:スウェーデンは偽ドミトリー2世に勝利、ポーランドに敗北 | |
交戦勢力 | |
ロシア・ツァーリ国 スウェーデン王国 |
ポーランド・リトアニア共和国 偽ドミトリー2世 |
指導者・指揮官 | |
ミハイル・スコピン=シュイスキー ヤコブ・デ・ラ・ガーディエ |
スタニスワフ・ジュウキェフスキ ロマン・ロジュンスキ パヴェウ・ヤン・サピェハ |
戦力 | |
スウェーデン傭兵5,000人 ロシア軍5,000人(対ドミトリー2世) ロシア軍30.000人(クルシノの戦い) 大砲11門 |
ロシア反乱軍最大10万人 ポーランド騎兵6,500 ポーランド歩兵200 大砲2門 |
損害 | |
傭兵の大半がクルシノの戦いで寝返る ほか損害多数 |
ロシア反乱軍:損害多数 ポーランド軍:400 |
Template:Campaignbox ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年) | |
背景
編集1609年、スウェーデン王カール9世とロシアのツァーリヴァシーリー4世はヴィボルグで同盟を締結、ロシアがケックスホルム県をスウェーデンに割譲する代償としてスウェーデンがロシア側で参戦した[1]。
対偽ドミトリー2世戦役
編集ロシア・スウェーデン連合軍約1万人は1609年4月にノヴゴロドからモスクワに行軍、途中で反乱軍を撃破してトローイツェ・セルギエヴァ・ラーヴラの包囲を解いた。偽ドミトリー2世はモスクワ近郊のトゥシノで宮廷を構え、ヴァシーリー4世を脅していたが、連合軍は偽ドミトリー2世の支持者を蹴散らし、1610年3月にはモスクワの包囲も解いて入城した[2]。その後、偽ドミトリー2世を支持したボヤールの一部がポーランド王子ヴワディスワフにロシア王位を請求するよう求めた一方、スコピン=シュイスキーは毒殺され、代わってヴァシーリー4世の弟ドミトリー・シュイスキーが軍を率いた[1]。
対ポーランド戦役
編集1610年6月、デ・ラ・ガーディエとドミトリー・シュイスキーはモスクワを発ってポーランドによるスモレンスク包囲を解こうとしたが、7月4日のクルシノの戦いでデ・ラ・ガーディエの軍勢の大半がポーランドのスタニスワフ・ジュウキェフスキに寝返る結果となった[1]。
その後
編集クルシノの戦いでデ・ラ・ガーディエの軍勢が400人を除いて寝返ったため、彼はジュウキェフスキと停戦協定を締結、モスクワのツァーリに協力しないことを代償としてヴィボルグまで行軍する権利を確保した[2]。デ・ラ・ガーディエ戦役はイングリア戦争の前ぶれとされることもある。
脚注
編集- ^ a b c Željko, Fajfrić (2008). Ruski carevi (1. izd ed.). Sremska Mitrovica: Tabernakl. ISBN 9788685269172. OCLC 620935678
- ^ a b Velikai︠a︡ russkai︠a︡ smuta : prichiny vozniknovenii︠a︡ i vykhod iz gosudarstvennogo krizisa v XVI-XVII vv.. Strizhova, I. M., Стрижова, И. М.. Moskva: Dar. (2007). ISBN 9785485001230. OCLC 230750976