テオドラード・ド・トロワ

テオドラード・ド・トロワフランス語:Théodérade de Troyes, 868年ごろ - 903年以降)は、西フランクウードの妃。

テオドラード・ド・トロワ
Théodérade de Troyes
西フランク王妃
在位 888年 - 898年

出生 868年ごろ
死去 903年以降
配偶者 ウード
子女 ギー
ラウル
アルヌール
父親 トロワ伯アレラン?
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生涯

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テオドラードについては、891年または892年5月21日付で夫ウードが発行した、ヴェダスタン修道院の領地を確認する特許状によってのみその存在が確認されている[1][2]

『Europäische Stammtafeln』によると、テオドラードはトロワ伯アレランの娘として868年ごろに生まれたという[3]。しかしフランスの系図学者セッティパニは、これについては証明されていないと指摘しており[4]、テオドラードの出自に関する確実な情報は今のところない。

テオドラードは16歳のころにパリ伯ウードと結婚したが、ウードはフランス西部へのノルマン人の侵攻に対する遠征のため、パリが包囲されているときでもしばしばテオドラードと子供たちをパリに残した[5]

夫ウードは883年にパリ伯、886年にネウストリア侯、そして888年に西フランク王となり、898年に死去した[6]

子女

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  • ギー - 889年にウードは自身の子が正嫡であることをほのめかしており、これがおそらくギーのことであると考えられている。これは903年8月28日にルドンでブルターニュ公アラン1世が発行した特許状の中でのみ言及されているが、これはおそらく偽物であると考えられており、したがってギーの実在性には疑問が残る[6]
  • ラウル(882年頃 - 898年以降) - アクィタニア王、一次資料が不明な状態で『Europäische Stammtafeln』に言及されている[1][7]
  • アルヌール(885年頃 - 898年) - アデマール・ド・シャバンヌによると、父ウードの死後間もなく死去したという[1]

脚注

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  1. ^ a b c Charles Cawley. “FRANCE, CAPETIAN KINGS”. Medieval Lands, Foundation for Medieval Genealogy. 2013年9月30日閲覧。
  2. ^ Settipani 1993, pp. 404–405.
  3. ^ Wilhelm Karl von Isenburg, Europäische Stammtafeln, Band 2, Stargardt, Berlin, 1936, Tafel 10
  4. ^ Settipani 1993, p. 405.
  5. ^ C. Bouyer: Dictionnaire des Reines de France, p. 109
  6. ^ a b Settipani 1993, pp. 402–403.
  7. ^ Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln, vol. II, 1935-2007, p. 10

参考文献

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  • Settipani, Christian (1993). Patrick van Kerrebrouck. ed. La Préhistoire des Capétiens (Nouvelle histoire généalogique de l'auguste maison de France, vol. 1). Villeneuve-d'Ascq. ISBN 978-2-95015-093-6