スヴャトスラフ・ムスチスラヴィチ (スモレンスク公)
スヴャトスラフ・ムスチスラヴィチ(ロシア語: Святослав Мстиславич、? - 1239年?)は、ムスチスラフ3世の子である。ノヴゴロド公:1218年 - 1219年、ポロツク公:1222年 - 1232年、スモレンスク公:1232年 - 1238年頃[1]。聖名はセミョーン。
スヴャトスラフ・ムスチスラヴィチ Святослав Мстиславич | |
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ノヴゴロド公 ポロツク公 スモレンスク公 | |
スヴャトスラフをノヴゴロドから呼び戻し、弟フセヴォロドにノヴゴロド公とする父ムスチスラフ | |
在位 |
ノヴゴロド公:1218年 - 1219年 ポロツク公:1222年 - 1232年 スモレンスク公:1232年 - 1238年頃 |
死去 |
1239年? |
家名 | リューリク家 |
父親 | キエフ大公ムスチスラフ3世 |
概要
編集おそらく、スモレンスク公国がポロツク公国を獲得した1222年の後に、スヴャトスラフはポロツク公となった。1230年、前任のスモレンスク公ムスチスラフの死後、スモレンスク公の座はスヴャトスラフに渡るはずだったが、何らかの理由で、スモレンスクの人々は、スヴャトスラフの公への着任を望まなかったようである。1232年、スヴャトスラフはポロツクの人々の援助を得て、スモレンスクの敵対勢力を打ち払い、公位についた。
1238年3月、モンゴルのルーシ侵攻の過程で、モンゴル帝国軍の大部分がスモレンスクの東30kmの地点を通過している。とある文学作品[注 1]では、モンゴル軍の破壊行為について伝えているが、スヴャトスラフ(あるいはその後継者の公)の対応は明らかではない。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ Л.Войтович КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ
参考文献
編集- 1.Рыжов К. Все монархи мира. Россия. М.,1998
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