ザクセン自由州 (1918年-1952年)

ドイツ国及びドイツ民主共和国の構成国
ザクセン自由州
Freistaat Sachsen
ザクセン王国 1918年 - 1952年 ライプツィヒ県
ドレスデン県
カール=マルクス=シュタット県
ザクセンの国旗 ザクセンの国章
(国旗) (国章)
ザクセンの位置
1920年のザクセン自由州
公用語 ドイツ語
首都 ドレスデン
国家代理官
1933年 - 1945年5月7日 マルティン・ムッチュマンドイツ語版
州首相
1918年 - 1919年リヒャルト・リピンスキドイツ語版
1947年 - 1952年マックス・セイデヴィッツドイツ語版
面積
1930年14,986km²
1950年17,004km²
人口
1930年4,994,281人
1950年5,682,800人
変遷
成立 1918年11月10日
州憲法成立1920年11月1日
州解体1952年
現在ドイツの旗 ドイツ

ザクセン自由州またはザクセン自由国 (ドイツ語: Freistaat Sachsen) は、1918年のドイツ革命で消滅したザクセン王国に代わって成立したドイツ国の州である。ヴァイマル共和政からナチス・ドイツ第二次世界大戦後のソ連による占領を経てドイツ民主共和国となり、1952年に県に分割されて解体された。

ザクセン自由州の位置。1945-1952年の地図

歴史

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自由州の成立

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ドイツ革命が勃発して間もない1918年11月8日、ザクセン労兵レーテ評議会がザクセン国王フリードリヒ・アウグスト3世の退位を求めて蜂起した。これに対して、国王はザクセン軍にレーテへの攻撃を控えるよう命じ、11月13日に避難先のグーテボルン城ドイツ語版で退位宣言を発した。

11月15日、暫定政権としてドイツ独立社会民主党リヒャルト・リピンスキドイツ語版を首班とするザクセン共和国人民委員評議会が発足し、11月28日には21歳以上の男女に普通、平等、直接、秘密の選挙権(比例代表制)が導入する決定が行われた。1919年2月2日に行われた人民議会選挙[1]を経て、2月25日に暫定憲法が成立してザクセン自由州を宣言した。

1920年4月19日、ザクセン州務省は人民議会ドイツ語版に憲法草案を提出した。この憲法草案は暫定憲法とプロイセン自由州憲法の影響を受けたほか、1919年8月11日のドイツ国憲法に適合した。

草案は1920年5月12日の第一読会で議論され、人民議会は特別委員会を選出した。特別委員会はドイツ共産党を除く全ての政治勢力から選出され、内訳はドイツ社会民主党から7人、ドイツ民主党から4人、ドイツ独立社会民主党から3人、ドイツ国家人民党から3人、ドイツ人民党から1人が選ばれた。自由州憲法は1920年10月26日に全会一致で採択され、1920年11月1日に施行された。

テューリンゲン州との境界調整

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1928年にはテューリンゲン州との間で境界の調整が行われ、ザクセン自由州の土地1,778ヘクタールおよび住民2,900人がテューリンゲン州に、テューリンゲン州の土地1,115ヘクタールおよび住民4,890人がザクセン自由州に移管された[2][3]

州議会選挙

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1919年の人民議会選挙から1930年までの州議会選挙の結果[4]は下記の通りである。

選挙実施年 SPD DDP USPD DNVP DVP CVP USPD右派 USPD左派 中央党 KPD WP VRPドイツ語版 ASPSドイツ語版 NSFB SLVドイツ語版 NSDAP CSVD VNRVドイツ語版
1919年 41,6 % – 42議席 22,9 % – 22議席 16,3 % – 15議席 14,4 % – 13議席 3,9 % – 4議席 1,0 % – 0議席 -
1920年 28,3 % – 27議席 7,7 % – 8議席 21,0 % – 20議席 18,6 % – 18議席 13,9 % – 13議席 2,9 % – 3議席 1,1 % – 1議席 5,7 % – 6議席 -
1922年 41,8 % – 40議席 8,4 % – 8議席 19,0 % – 19議席 18,7 % – 19議席 10,5 % – 10議席 -
1926年 32,1 % – 31議席 4,7 % – 5議席 14,5 % – 14議席 12,8 % – 12議席 14,5 %– 14議席 10,0 % – 10議席 4,2 % – 4議席 4,2 % – 4議席 1,6 % – 2議席 -
1929年 34,3 % – 33議席 4,3 % – 4議席 8,1 % – 8議席 13,5 % – 13議席 12,8 % – 12議席 11,3 % – 11議席 2,6 % – 3議席 1,5 % – 2議席 5,2 % – 5議席 5,0 % – 5議席
1930年 33,4 % – 32議席 3,3 % – 3議席 4,8 % – 5議席 8,7 % – 8議席 13,6 % – 13議席 10,6 % – 10議席 1,7 % – 2議席 4,6 % – 5議席 14,4 % – 14議席 2,2 % – 2議席 1,5 % – 2議席

※議席を獲得できなかった政党の得票率が含まれないため、合計は100%にならない。

1933年から1945年まで

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1934年のライプツィヒ・メッセに出席したヒトラーとザクセン大管区指導者マルティン・ムッチュマンドイツ語版

ナチ党は1930年のザクセン州議会ドイツ語版選挙で14,4%の得票率を獲得して第二党に躍進したものの、社会民主党が第一党の座を占めていた。

選挙後の組閣でもドイツ人民党のヴァルター・シークドイツ語版が州首相に選出され、内閣ドイツ語版を組閣したが、ナチ党からの入閣はなかった[5]

1933年3月ドイツ国会選挙でザクセン自由州内にあった3選挙区の得票率はライプツィヒ選挙区が40%、ドレスデン選挙区が43.6%、ケムニッツ選挙区が50%と、ケムニッツ選挙区以外はナチ党の獲得した43.9%の得票率を下回った。

強制的同一化の過程でヒトラー内閣は1933年5月5日にマルティン・ムッチュマンドイツ語版をザクセン自由州の国家代理官に任命し、ムッチュマンは1935年にマンフレート・フォン・キリンガードイツ語版から州首相職を引き継いだ。

1934年1月30日のドイツ国再建に関する法ドイツ語版(ライヒ新構成法)によってザクセン自由州は他の州と同様に自治権が停止され、ナチ党のザクセン大管区とほとんど同一化された。

第二次世界大戦末期の1945年2月13日と2月14日、ドレスデンは連合国軍による大規模空爆によって廃墟となった。1945年4月25日、アメリカ軍ソビエト軍の兵士がトルガウで出会った(「エルベの誓い」)。占領地域の境界は連合国によって事前に決定されていたため、ザクセン州は1945年7月にソビエト軍が占領した。このうち、南部のシュヴァルツェンベルク地域ドイツ語版は「シュヴァルツェンベルク自由共和国ドイツ語版」と呼ばれる空白地域となっていたほか、ツヴィッカウはアメリカ軍の占領下にあった。一方でドイツとポーランドとの新しい国境線よりも東側の地域にあったザクセン自由州ライヒェナウ一帯の領土はポーランドに編入され、ドルヌィ・シロンスク県ズゴジェレツ郡ボガティニャ市ドイツ語版となった。

1945年から1952年まで

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1947年と1990年における州境の差異

ドイツの戦後処理において、在独ソ連軍政府は1945年7月に占領下にあった各地区に政府を置いた[6]。ザクセン州首相にはルドルフ・フリードリヒスドイツ語版が任命された。

占領下のザクセン州では1945年5月にドレスデンでドイツ共産党のアントン・アッカーマンドイツ語版が政党活動を開始したのを皮切りに、各政党の活動が再開されたが、ドイツ社会民主党とドイツ共産党のザクセン州支部は1946年4月22日に行われた統合ドイツ語版によるドイツ社会主義統一党の結成よりも早くに統合されていた。

ザクセン州議会ドイツ語版の第1回選挙は1946年10月20日に実施され、ソ連の後ろ楯を得たドイツ社会主義統一党が得票率49.1%で第一党となり、自由民主党が24.7%、キリスト教民主同盟が23.3%、農民相互協力協会ドイツ語版英語版が1.7%と続いた[7]。1947年7月にフリードリヒスが死亡する[8]と、マックス・セイデヴィッツドイツ語版が州首相となった。1947年2月には州憲法が採択された[9]が、州議会のすべての決議は在独ソ連軍政府の承認を経なければならなかった。

1949年10月にドイツ民主共和国が建国されると、1950年10月に第2回州議会選挙が行われた。この選挙は、すべての政党が合同して選挙連合「国民戦線ドイツ語版」を結成した上で行われたもので、 候補者リストもあらかじめ体制側が決めた議席配分に基づくものであった。すなわち、実際にはドイツ社会主義統一党率いる翼賛体制への信任投票に過ぎず、投票率も実に99.8%に上った。この選挙に続いて、議会上院にあたる共和国参議院ドイツ語版に13人の州代表が送られたが、結局これは最初にして最後の事例となった。ドイツ社会主義統一党は従来ドイツが採用していた連邦制ではなく、中央集権的な単一国家の建設を志向していたことから、1952年7月のドイツ民主共和国憲法の改正によりは解体された。5つあった州はそれぞれ解体されて14の県 (Bezirke)に再編され、ザクセン州はライプツィヒ県ドレスデン県ケムニッツ県(カール=マルクス=シュタット県)の3県に分割された。その後、1958年には共和国参議院も廃止され、1968年と1974年に行われた憲法改正を経て、1989年のベルリンの壁崩壊まで、連邦制はドイツ民主共和国において徹底的に排除された。1990年3月に同国初の自由選挙が実施されてドイツ再統一を主張する保守連合「ドイツ連合」が勝利すると、1990年7月23日に県を統合した上で境界を調整して新たに5州(新連邦州)が設置された。人民議会は8月23日に新連邦州が西ドイツ基本法第23条に基づいて10月3日にドイツ連邦共和国に加盟すると決議したことでドイツ再統一が果たされた。

歴代州首相

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氏名 (独語) 所属政党 就任日 退任日
1 リヒャルト・リピンスキ (Richard Lipinski) USPD 1918年11月15日 1919年1月21日
2 ゲオルク・グラッドナウアー (Georg Gradnauer) SPD 1919年1月21日 1920年5月4日
3 ヴィルヘルム・ブーフ (Wilhelm Buck) SPD 1920年5月4日 1923年3月21日
4 エーリヒ・ツァイグナー (Erich Zeigner) SPD 1923年3月21日 1923年10月29日
5 ルドルフ・ハインツェ (Rudolf Heinze) DVP 1923年10月29日 1923年10月31日
6 アルフレート・フェリシュ (Alfred Fellisch) SPD 1923年10月31日 1924年1月4日
7 マックス・ヘルト (Max Heldt) SPD 1924年1月4日 1929年6月26日
8 ヴィルヘルム・ビュンガー (Wilhelm Bünger) DVP 1929年6月26日 1930年2月18日
9 ヴァルター・シーク (Walther Schieck) DVP 1930年5月6日 1933年3月10日
10 マンフレート・フォン・キリンガー (Manfred von Killinger) NSDAP 1933年3月10日 1935年2月28日
11 マルティン・ムッチュマン (Martin Mutschmann) NSDAP 1935年3月1日 1945年5月7日
12 ルドルフ・フリードリヒス (Rudolf Friedrichs) SPD
SED
1945年7月4日 1947年6月13日
13 マックス・セイデヴィッツ (Max Seydewitz) SED 1947年7月31日 1952年7月23日

脚注

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  1. ^ Weimarer Landtag (1919–1933), abgerufen 1. Dezember 2015
  2. ^ Karte mit den Austauschgebieten
  3. ^ "Karte mit den Austauschgebieten". 2018年12月29日閲覧
  4. ^ "Der Freistaat Sachsen - Landtagswahlen 1919–1933". gonschior.de. 2019年1月30日閲覧
  5. ^ Karsten Rudolph: Nationalsozialisten in Ministersesseln. (S. 247ff.) In: Von der Aufgabe der Freiheit: Politische Verantwortung und bürgerliche Gesellschaft im 19. und 20. Jahrhundert. Festschrift für Hans Mommsen zum 5. November 1995.; s. a. E. Jesse et al.: Politik in Sachsen. Wiesbaden 2014, S. 31
  6. ^ ベルリンは連合国軍による分割占領下に置かれていた。
  7. ^ Landtagswahlen Sachsen”. wahlen-in-deutschland.de (25 October 2014). 8 June 2017閲覧。
  8. ^ フリードリヒスの死を巡っては、共産党出身の州内相クルト・フイッシャードイツ語版による暗殺を疑う説も存在している。ただし、再統一後の1999年にザクセン自由州政府が行った調査ではフイッシャーが関与したとする決定的な証拠が見つかっていないため、結論は得られていない。
  9. ^ webmaster@verfassungen.de. "Verfassung des Landes Sachsen (1947)". 2017年10月27日閲覧