アンソニー・ブルース・ブリューワAnthony Bruice Brewer, 1957年11月25日 - )は、アメリカ合衆国ルイジアナ州出身の元プロ野球選手外野手、右投右打)、野球指導者。カンザスシティ・ロイヤルズでプレーしたマイク・ブリューワは実弟。

トニー・ブリューワ
Tony Brewer
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ルイジアナ州レッドリバー郡クーシャッタ
生年月日 (1957-11-25) 1957年11月25日(67歳)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1979年 アマチュアFA
初出場 MLB / 1984年8月1日
NPB / 1986年4月4日
最終出場 MLB / 1984年9月30日
NPB / 1990年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • パロアルト高等学校

経歴

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1979年ロサンゼルス・ドジャースと契約。1984年8月1日の対サンディエゴ・パドレス戦(ジャック・マーフィー・スタジアム)の8回表にグレッグ・ブロックの代打として出場してメジャーデビューを果たし、結果はライトフライだった。同年は24試合に出場したが、翌1985年はメジャーでの出場はなかった。

1986年NPB日本ハムファイターズに入団。「30本塁打以上を放てる」との触れ込みで豪打を期待された。同年の本塁打数は20本に留まったが、打率.321・68打点を記録した。

1987年は開幕から好調を維持し、オールスターゲームにも出場。シーズンでも打率.303・35本塁打・98打点と期待された豪打を見せ、ベストナインに選ばれた。

1988年は、3月30日の12球団トーナメントでホームランを放つなど順調だったが、直後に腰椎分離症で離脱[1]。開幕後もしばらくは一軍登録されたまま復帰の機会を窺っていたが、その後4月15日に登録抹消され[2]、一軍出場なしに終わった。

1989年は、打率.306・27本塁打・73打点を記録して2度目のチーム三冠王となり、更に長距離打者ながら8盗塁を記録した。

1990年は打率・本塁打・打点全ての部門で前年を下回り、得点圏打率も.189と振るわず、1試合3併殺打の日本タイ記録を作るなど全体的に成績が落ち込んだ。同年、東京ドームでの対オリックス・ブレーブス戦で伊藤敦規から受けた死球に怒りマウンドに詰め寄り、伊藤の右顎にラリアットを喰らわせ退場処分を受けるなど1シーズン3度の退場処分を受けている。持病の腰痛もあり同年限りで退団。

退団後はカリフォルニア州のパロアルト高校野球部とレスリングのコーチを務める傍ら、大学に通い体育教師になった。1995年には全米高校選抜のチーム監督となって日本を訪れている。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1984 LAD 24 41 37 3 4 1 0 1 8 4 1 0 0 0 4 1 0 9 1 .108 .195 .216 .411
1986 日本ハム 130 565 511 78 164 28 2 20 256 68 1 2 0 3 46 3 5 71 13 .321 .381 .501 .882
1987 129 555 478 85 145 24 1 35 276 98 2 3 0 5 71 2 1 74 9 .303 .391 .577 .968
1989 130 555 477 70 146 23 1 27 252 73 8 6 0 5 71 4 2 79 17 .306 .395 .528 .923
1990 109 469 407 65 120 16 2 17 191 63 4 2 0 3 51 0 8 51 15 .295 .382 .469 .851
MLB:1年 24 41 37 3 4 1 0 1 8 4 1 0 0 0 4 1 0 9 1 .108 .195 .216 .411
NPB:4年 498 2144 1873 298 575 91 6 99 975 302 15 13 0 16 239 9 16 275 54 .307 .387 .521 .908

表彰

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NPB

記録

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NPB初記録
NPBその他の記録

背番号

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  • 50 (1984年)
  • 44 (1986年 - 1990年)

脚注

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  1. ^ 読売新聞1988年4月8日19面
  2. ^ 読売新聞1988年4月16日19面

関連項目

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外部リンク

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