アマル・シング (タンジャーヴール藩王)

アマル・シングマラーティー語:रामस्वामी अमरसिंह भोसले, Amar Singh, 1738年以降 - 1802年4月19日)は、南インドタミル地方タンジャーヴール藩王国の君主(在位:1793年 - 1798年)。

アマル・シング
Amar Singh
タンジャーヴール藩王
アマル・シング
在位 1793年 - 1798年
戴冠式 1793年
別号 ラージャ

出生 1738年以降
死去 1802年4月19日
タンジャーヴール
家名 ボーンスレー家
父親 プラタープ・シング
宗教 ヒンドゥー教
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生涯

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1787年、兄のトゥラジャージー2世が死亡し、養子であるサラボージー2世が王位を継承すると、アマル・シングがその摂政となった[1]

1792年7月12日、アマル・シングはイギリスと軍事保護条約を結び、イギリス軍の駐留費用の負担、外交権の放棄などを定められ、実質的にその保護下に置かれることとなった(タンジャーヴール藩王国)[1][2]

1793年、アマル・シングはイギリスのマドラス知事により、兄の正統な後継者とされ、 サラボージー2世は廃位された[1]

1798年、サラボージー2世が王位を主張したことから問題が発生し、同年6月29日にアマル・シングは退位し、サラボージー2世が復位した[1][3]

1802年4月19日、アマル・シングはタンジャーヴールにおいて死亡した[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e Tanjore 3
  2. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.206
  3. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、pp.207-208

参考文献

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  • 辛島昇『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』山川出版社、2007年。 

関連項目

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